いろいろな葬儀の形、ミュージシャンの葬儀

X JAPAN HIDEの葬儀

葬儀

1980年代後半に登場し、強烈なインパクトを残した伝説的ロックバンド「X」のメンバーHIDE。

X JAPANは当時、絶大な人気を誇りながらも、メンバーのToshIが音楽性の違いを理由に脱退を表明。バンドは1997年に一時解散となります。 hideはバンドが解散した後も精力的に音楽活動を行っていましたが、解散翌年の1998年5月、自宅で死体となって発見されます。その状況が不自然だったため、自殺とも事故死ともいわれていますが、死の真相は謎です。

X JAPANは、現在のヴィジュアル系バンドの走りのような存在であり、激しい音楽スタイルも相まって、当時の若者を惹きつけました。X JAPANはヴィジュアルに目がいきがちですが、ドラムのYOSHIKIを中心とした高い演奏能力は注目すべきものがありました。

X JAPANでギターを担当していたHIDEは、バンドのまとめ役をこなしていたと聞きます。X JAPANはデビュー前、東京周辺のインディーズバンドの中では、その破天荒さで多くのライブハウスや居酒屋から出入り禁止にされていたそうですが、HIDEには何かキャプテンシーというか天性のものが備わっていたのかもしれません。

1998年5月2日に謎の死を遂げたhideさん。そのニュースはすぐに日本中を駆け巡りました。前日にはテレビの収録をきっちりとこなしており、その様子は後日、放送されています。マネージャーを務めていた弟の松本裕士さんは、特に変わった様子はなかったと話しています。

しかし、hideさんが亡くなったというニュースは、X JAPANの元メンバーや音楽仲間にも広がりました。そして熱狂的ファンにも…

ニュース速報では、

元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定

と報道されましたが、実際に彼が自殺することに疑問を呈する人々も多く、X JAPANリーダーのYOSHIKIもそのひとりです。遺書も何も見つかっていません。弟の松本裕士さんは後日、肩こりと偏頭痛を癒やすためのストレッチを、泥酔中に行ったために起こった事故だと主張しています。

しかし、hide死去のニュースは多くの人に衝撃を与えました。ロサンゼルスに滞在していたYOSHIKIは、知らせを聞いて日本へ戻る途中、機内でニュースを見て号泣したそうです。

hideさん死去のニュースを聞き、ファンの後追い自殺が続くという悲しい現象も起こりました。その数は60人にも上り、YOSHIKIやX JAPAN元メンバーらが自殺を思いとどまるよう会見を開いたこともありました。

5月5日に、家族や親しい人たちだけでhideさんの密葬が行われました。しかし会場周辺には多くのファンが集まり、その数は数千人規模になったとも言われています。

よく5月6日の通夜、7日の葬儀・告別式はファンによる献花も行われました。通夜と告別式に集まったファンの数は合わせて約5万人とされ、この数は日本における有名人の葬儀史上、最多の人手として現在も記録になっています。

一部では将棋倒しやパニックなども起こったものの、これだけ大勢で、しかも精神的にも不安定な若者が集結した割には、それほど大きな問題にならなかったことは奇跡的かもしれません。

告別式はテレビでも生中継されて、X JAPANの元メンバー達、また音楽仲間が参列しました。YOSHIKIは友人代表ということで弔辞を読み上げました。彼の悲しみは、その震える背中と涙声から明らかでした。

HIDEがいなかったら、今の俺はありえない そしてその後、脱退したToshIがYOSHIKIのピアノ伴奏でヒット曲「Forever Love」を歌い、hideさんを送りました。

hideさんの死は、当時ファンだった若者にとって本当に衝撃的なものでした。

ギターを演奏する姿も、酒を飲んで大騒ぎする姿も、もう見られない。

hideさんは以前、親しい友人にこう語っていたそうです。

俺、死んだら、絶対に素顔でなんか棺桶に入りたくない。鼻に白いもの詰めるのなんか、まっぴら。ちゃんとメイクして、いちばんいい顔でいたい。遺影もいちばん派手で気にいってる写真にしてほしい (A MEMORY TO HIDEより)

hideさんは赤髪、完璧メイクで安置されていたそうです。

葬儀会場にはファンのほか、多くの有名ミュージシャン、メディアが集まりました。棺をのせた霊柩車を追いかけるファンなども出て、パニックになる場面もあった出棺時ですが、何かロッカーらしい葬儀だったのではないでしょうか。突然、逝ってしまったhideさんでしたが、5万を超えるファン、そして仲間や音楽関係者の気持ちがこもった葬儀だったのではないでしょうか。

戒名・戒名授与

尾崎豊の葬儀

尾崎豊の葬儀

尾崎豊は80年代後半に爆発的人気を誇ったロックシンガーです。当時の若者が持つ社会への不安・不満の代弁者として、尾崎は彼らの圧倒的な支持を得ます。

大人への反抗、半社会的な曲の数々はセンセーショナルでした。

しかし、10代の気持ちの代弁者は、20代になると迷走するようになります。曲作りにも苦悩するようになり、ライブやツアーに出ることもままならなくなります。覚醒剤取締法違反で逮捕されるなど、周囲との関係も悪化していきます。

20代に入ると、尾崎のメッセージはかつてのような「反支配」から、「真実の愛」や「贖罪」というものに変化していきます。これはおそらく、尾崎の人生におけるビッグイベント「結婚」、そして「長男の誕生」が大きく影響しているのではないかと考えられます。

1992年4月25日、尾崎は東京都足立区の民家前で倒れているところを発見されます。通報により警察官が駆けつけ、その後病院に運ばれますが、医師の忠告に反し帰宅。帰宅後に容態が急変し、日本医大付属病院に搬送されるも覚醒剤中毒を原因とする肺水腫で死亡しました。26歳という若さでの死でした。

お通夜には家族と親類、友人、音楽業界の関係者らが参列しました。

葬儀会場には、テレビドラマ「北の国から」の中でも使われた「I Love You」が流され、「北の国から」に出演していた俳優の吉岡秀隆さんも参列していました。尾崎の親友でもあった吉岡さんは、

初めて尾崎さんに贈る文章が弔辞になるなんてこんなにつらいことはありません。

アイソトープの尾崎さんの部屋でこの文章を書きました。尾崎さんのいないあの部屋にも、僕ひとり押しつぶすには充分な思い出がつまっていて、それでなくとも、ままならない体がいよいよどうにもなりません。

尾崎さんがいなくなって人間の涙はとどまることを知らないことを知りました。

自分がこんなにもちっぽけで無力なことを知りました。人は悲しみに出会った時、眠れない日々が続くということも知りました。尾崎さんは何度眠れない夜を過ごし、どれだけの涙をながしたことでしょう。

転んでも転んでも立ちあがり、走り続けて行こうとする尾崎さんを悲しいぐらいに僕は好きでした。自分の一番生きたい時間を一番自分らしく生きた尾崎さんを僕は誰よりも誇りに思っています。

聞く人の人生そのものを変えてしまうほどの歌を自らの命をけずるように伝えようとする尾崎さんは、僕に表現するということの本当の意味を教えてくれました。何かを恐れ、前へ進めない時、僕の背中を押して大丈夫、大丈夫といって笑いかけてくれました。

人が本当に評価されるのは、その人が死んだ時なんだろうなといっていました。尾崎さんのことを、誰が何と言おうと、僕が知っている尾崎さんは、もうこれからは誰からも傷つけられることなく僕の魂の中で生きていくのです。

尾崎さんは人一倍寂しがり屋だったから、これからはみんなの一人一人の胸の中で静かにゆっくりと休むことでしょう。

尾崎伝説は、はじまったばかりなのです。

最後の最後まで言えなかった言葉を贈ります。

尾崎さん、ゆっくり休んで下さい・・・・・。
と挨拶しています。
尾崎の親友というか、弟分だった吉岡さんの言葉には涙を誘われますね。

東京・神奈川・千葉・埼玉・大阪・兵庫で葬儀・葬式

葬儀・告別式では尾崎のヒットソングが繰り返し流される

尾崎豊の告別式は、「ダンスホール」などのヒット曲が流される中で執り行われました。尾崎豊の兄・康さんは弟について、物事の本質を突き詰めようとしたり、まっすぐと見つめるところがあったとした上で、

26歳という死はあまりにも早かったが、彼はその生涯を全力疾走で駆け抜け、天寿を全うしたと思う。 と挨拶したそうです。

一般参列者のための尾崎豊追悼式は、4月30日に東京都文京区の護国寺で開かれました。

この日は4月とは思えない、真冬のように寒々と、そして重々しい雲に空は覆われていました。護国寺周辺には多くの若者が集まり始めていました。時間が経つにつれ、周辺に集まる若者の姿は増え、追悼式に参列する若者たちの列の最後尾は、朝の段階で会場最寄りの護国寺駅ではなく、隣駅にまで達していました。最終的には南北約3.5キロの長さにまで達したそうです。人数にして約4万人が降りしきる雨の中、尾崎豊という一人のカリスマのために集まったのです。

本堂の前には大型スクリーンが設置され、そこには情熱的に歌う尾崎の姿がありました。献花に列を作ったファンはその姿を見ながら何を思ったのでしょうか?

この追悼式では、自然発生的に尾崎のヒットソング「卒業」が4万人の参列者により合唱されました。4万人の歌声は静かながらもはっきりとしていたそうです。


参考
尾崎豊 追悼式 / 1992.4.30

東京の僧侶派遣

忌野清志郎の葬儀

忌野清志郎の葬儀

日本の「ミスターロックンロール」。忌野清志郎は「RCサクセション」「The Timers」、そして数々のミュージシャンとのコラボレーションで日本のロックに多大なる貢献をしました。

その歌詞の内容から、テレビ、ラジオ局から度々放送禁止処分を受けましたが、持ち前の(というか、それを楽しんでいるように見えた)反骨精神で、彼らをあざ笑うかのように(ブラック)ユーモアたっぷりに対応する姿は、死ぬまで変わらなかったと思います。

2006年に喉頭がんを患って音楽活動を休止。がんを摘出することで声を失う可能性が高かったため、他の方法で完治を目指しましたが、約2年後にはがんの転移が発覚しました。それでも飛び入りでライブに出演するなど、音楽活動は続けていましたが、2009年5月2日、癌性リンパ管症のため息を引き取りました。58歳でした。

5月4日に関係者だけで密葬が行われた後、5月9日には「忌野清志郎 AOTYAMA ROCK’N ROLL SHOW」と題した「ロック葬」が行われました。この前代未聞の「ロック葬」を訪れた弔問客は約4万3000人を数え、X JAPANのhideに次ぐ参列者を集めたことになります。

会場では、

「本日は忌野清志郎青山ロックンロールショーにお越しいただき、ありがとうございます。」

というアナウンスが流され、ファンらは「清志郎らしい」最期に歓喜しました。
祭壇は清志郎がこれから最期のステージに上るイメージ。カラフルに花とキャンドルで飾られました。
葬儀は「ロック葬」らしく演奏で始まります。ライブ感満点!MCが葬儀を盛り上げます。

キング!ゴッド!FOREVER忌野!

かつて、このような葬儀があったのでしょうか?

出席者全員で黙祷を捧げた後は、代表による弔辞です。どの弔辞も素晴らしいものだったのですが、甲本ヒロト(クロマニヨンズ)さんの弔辞から一部を紹介します。

キヨシロー。えー、清志郎、あなたとの思い出に、ろくなものはございません。突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり、なんだか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり。レコーディングの作業中には、トンチンカンなアドバイスばっかり連発するもんで、レコーディングが滞り、そのたびにわれわれは、聞こえないふりをするのが必死でした。
でも、今思えば、ぜんぶ冗談だったんだよな。今日も、「キヨシローどんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のままで寝転がってたよ」って言うもんだから、「そうか、じゃあ俺も革ジャン着ていくか」と思って着たら、なんか浮いてるし。清志郎の真似をすれば浮くのは当然で、でもあなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。ステージの上の人だったんだな。

(中略)

一生忘れないよ。短いかもしれないけど、一生忘れない。ほんで、ありがとうを言いに来たんです。数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。はは……。今日もそうだよ、ひどいよ、この冗談は……。
うん。なるべく笑うよ。そんでね、ありがとうを言いに来ました。清志郎、ありがとう。それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフのみなさん、それから家族のみなさん、親族のみなさん、友人のみなさん、最高のロックンロールを支えてくれたみなさん、どうもありがとう。どうもありがとう。
で、あとひとつ残るのは、今日もたくさん外で待っている、あなたのファンです。彼らにありがとうは、僕は言いません。僕もそのひとりだからです。それはあなたが言ってください。どうもありがとう! ありがとう!

弔辞の後も仲間達によるライブは続いたそうです。
忌野清志郎らしい「ロック葬」。こんな葬儀をできる人は清志郎だけでしょう。


参考
忌野清志郎(弔辞の全文):POP-ID通信。

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