いろいろな葬儀の形、ミュージシャンの葬儀

尾崎豊の葬儀

尾崎豊は80年代後半に爆発的人気を誇ったロックシンガーです。当時の若者が持つ社会への不安・不満の代弁者として、尾崎は彼らの圧倒的な支持を得ます。

 
大人への反抗、半社会的な曲の数々はセンセーショナルでした。
 
しかし、10代の気持ちの代弁者は、20代になると迷走するようになります。曲作りにも苦悩するようになり、ライブやツアーに出ることもままならなくなります。覚醒剤取締法違反で逮捕されるなど、周囲との関係も悪化していきます。
 
20代に入ると、尾崎のメッセージはかつてのような「反支配」から、「真実の愛」や「贖罪」というものに変化していきます。これはおそらく、尾崎の人生におけるビッグイベント「結婚」、そして「長男の誕生」が大きく影響しているのではないかと考えられます。
 
1992年4月25日、尾崎は東京都足立区の民家前で倒れているところを発見されます。通報により警察官が駆けつけ、その後病院に運ばれますが、医師の忠告に反し帰宅。帰宅後に容態が急変し、日本医大付属病院に搬送されるも覚醒剤中毒を原因とする肺水腫で死亡しました。26歳という若さでの死でした。
 
 
お通夜には家族と親類、友人、音楽業界の関係者らが参列しました。
 
葬儀会場には、テレビドラマ「北の国から」の中でも使われた「I Love You」が流され、「北の国から」に出演していた俳優の吉岡秀隆さんも参列していました。尾崎の親友でもあった吉岡さんは、
 
初めて尾崎さんに贈る文章が弔辞になるなんてこんなにつらいことはありません。
 
アイソトープの尾崎さんの部屋でこの文章を書きました。尾崎さんのいないあの部屋にも、僕ひとり押しつぶすには充分な思い出がつまっていて、それでなくとも、ままならない体がいよいよどうにもなりません。
 
尾崎さんがいなくなって人間の涙はとどまることを知らないことを知りました。
 
自分がこんなにもちっぽけで無力なことを知りました。人は悲しみに出会った時、眠れない日々が続くということも知りました。尾崎さんは何度眠れない夜を過ごし、どれだけの涙をながしたことでしょう。
 
転んでも転んでも立ちあがり、走り続けて行こうとする尾崎さんを悲しいぐらいに僕は好きでした。自分の一番生きたい時間を一番自分らしく生きた尾崎さんを僕は誰よりも誇りに思っています。
 
聞く人の人生そのものを変えてしまうほどの歌を自らの命をけずるように伝えようとする尾崎さんは、僕に表現するということの本当の意味を教えてくれました。何かを恐れ、前へ進めない時、僕の背中を押して大丈夫、大丈夫といって笑いかけてくれました。
 
人が本当に評価されるのは、その人が死んだ時なんだろうなといっていました。尾崎さんのことを、誰が何と言おうと、僕が知っている尾崎さんは、もうこれからは誰からも傷つけられることなく僕の魂の中で生きていくのです。
 
尾崎さんは人一倍寂しがり屋だったから、これからはみんなの一人一人の胸の中で静かにゆっくりと休むことでしょう。
 
尾崎伝説は、はじまったばかりなのです。
 
最後の最後まで言えなかった言葉を贈ります。
 
尾崎さん、ゆっくり休んで下さい・・・・・。
 
と挨拶しています。
尾崎の親友というか、弟分だった吉岡さんの言葉には涙を誘われますね。
 
葬儀・告別式では尾崎のヒットソングが繰り返し流される
尾崎豊の告別式は、「ダンスホール」などのヒット曲が流される中で執り行われました。尾崎豊の兄・康さんは弟について、物事の本質を突き詰めようとしたり、まっすぐと見つめるところがあったとした上で、
 
26歳という死はあまりにも早かったが、彼はその生涯を全力疾走で駆け抜け、天寿を全うしたと思う。
 
と挨拶したそうです。
 
一般参列者のための尾崎豊追悼式は、4月30日に東京都文京区の護国寺で開かれました。
 
この日は4月とは思えない、真冬のように寒々と、そして重々しい雲に空は覆われていました。護国寺周辺には多くの若者が集まり始めていました。時間が経つにつれ、周辺に集まる若者の姿は増え、追悼式に参列する若者たちの列の最後尾は、朝の段階で会場最寄りの護国寺駅ではなく、隣駅にまで達していました。最終的には南北約3.5キロの長さにまで達したそうです。人数にして約4万人が降りしきる雨の中、尾崎豊という一人のカリスマのために集まったのです。
 
本堂の前には大型スクリーンが設置され、そこには情熱的に歌う尾崎の姿がありました。献花に列を作ったファンはその姿を見ながら何を思ったのでしょうか?
 
この追悼式では、自然発生的に尾崎のヒットソング「卒業」が4万人の参列者により合唱されました。4万人の歌声は静かながらもはっきりとしていたそうです。

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